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#3 雲霧

天界皇都の船着き場。
マガタから降り立った女性が、活気に満ちた皇都を眺めながら感慨深げににっこりと微笑んだ。

薄い灰褐色の短い髪が良く似合う、活発でしっかりしていそうな女性だった。
表情には生気が満ち溢れ、活動的な性格なのか、動きやすそうな服装をしていた。
外見的には、天界の機械を修理する整備工のようにも見える。

女性は軽く羽織った短いジャンパーの懐から、小さな宝石のような物を取り出した。
白い宝石のようにも鉱物のようにも見えるそれは、彼女が永い間探し求めていた物の一つだった。
バカルの遺産…。
九つに分かれた遺産の一つに過ぎなかったが、皇女…いや、今や皇帝となったエルゼの手中にある遺産まで含めて二つ見つけたことになる。

女性は掌に載せた素朴で小さなかけらを見つめながら、にっこりと微笑んだ。
この小さなかけらを見つけるために、ミドルオーシャンの下の世界を渡り歩いた記憶が思い浮かぶ。
これまで、彼女もアラドで囁かれる噂を聞いて天界の状況を少しは知ることができていた。

カルテルの皇都侵攻、アントンのパワーステーション占拠、アンジェ・ウェインが引き起こした内戦まで…。
それでも彼女が天界に戻れなかったのは、今彼女が手にしている物のせいだった。

そうだ。

彼女はその昔、7人のマイスターの一人であるクリオの子孫であり、一時はセブン・シャーズの一員だった者。
そしてリンジー・ロッサムを含む、現セブン・シャーズのメンバーたちが首を長くして待ちわびている存在。
最初のプライムと呼ばれるマイスター・ヘルマンの親友であり仲間。
そのヘルマンとの約束のために、バカルの遺産を探し求めている天才科学者、ミシェル・クリオだった。

彼女が見つけたバカルの遺産は天界の未来であり皇帝の希望、さらにはアラド全体に影響を及ぼす可能性のある巨大なエネルギー源だった。
ヘルマンと共に研究した設計図のかけらが一つ一つ揃いつつあるということが嬉しかったが、一緒に喜んでくれるはずの相手がこの世にいないということが悲しくもあった。
そうしてほろ苦い微笑みを浮かべながら歩き出そうとしたその時、船着き場付近の労働者たちが囁き合う声が聞こえた。

"帝国使節団が皇都に寄らないでノースピースへ向かったらしいけど…事実かな?"

"おいおい、あり得ないだろ。内戦が終わったばっかりなのに、今帝国がノースピースの貴族と手を結ぼうってのか?"

"そりゃそうだけどさ。俺も小耳に挟んだだけなんだよ。"

"くだらない話はいい加減にして、これでも運びな。"

デ・ロス帝国の使節団がノースピースへ向かったって…?
ノースピースの貴族たちがまた何か企んでるってこと?

"ノースピースか…"

その瞬間、ヘルマンの死が頭に浮かんだ。
徹底的に隠されたヘルマンの死は、その設計図をねらうカルテルの暗殺ということにされているが、設計図についてもっともよく知っているミシェルは確信していた。
真実は設計図の完成を恐れたノースピースの貴族たちによる陰謀だということを。
その過程でヘルマンの設計図の一部が消えたということにも、ミシェルだけが気付いていた。

彼女が持つヘルマンの設計図の半分と、ヘルマンの弟子であるハイラムが見つけた設計図の半分以外にも、ごく一部分ではあるもののヘルマンの死亡と同時に設計図の一部が失われていた。

ヘルマンの死とノースピースの貴族たちの関連があると考えるミシェルは、設計図の一部が失われたことが何を意味するのかにも心当たりがあった。
その上、帝国の関与だなんて…。
何も考えない愚か者でない以上、ノースピースの貴族が何を企んでいるのかは推測できるだろう。
彼らが盗んだ不完全なヘルマンの設計図で作り出す何かのためには、帝国の力が必要だということ。

"バカルの遺産と関係があるのかも…"

彼女が見つけたバカルの遺産の一つがアラドにあったことを考えると、不可能な話ではなかった。
最初から彼女がバカルの遺産を探す旅に出たのも、ヘルマンの設計図を完成させるためだったから…。
もしくは、それよりももっと大きな狙いが隠されているのかもしれない。

確かめるには、直接確認するしかない。
そもそもミシェル・クリオは気になることにはぶち当たって実践しないと気が済まない性格だった。
黙ってても怪しいことだらけのノースピース貴族とデ・ロス帝国の組合せね…。
怪しすぎて不安になる組合せだった。

もしも彼らが不完全な設計図でヘルマンの名を穢すようなハリボテを作ろうとしているならば、ミシェルは自分とヘルマンの名誉をかけて阻止するつもりだった。
ヘルマンの設計図を一緒に研究していた仲間として、彼女にはそうするべき責任があったから。

考えをまとめたミシェルは、皇宮があるゲントではなく、反対の方向へと歩みを向けた。
ノースピースへ向かうつもりだった。
彼女を待ち構えているリンジーや、他のセブン・シャーズの後輩たちには申し訳ないが、今のところは戻るよりも彼女の気に障る問題を確認することの方が大事だった。

"到着したら、連絡くらいはしとかなきゃね。"

首を長くして連絡を待っているであろうリンジーの姿を思い浮かべるミシェルの口元には、ささやかな微笑みが浮かんでいた。
彼女の後を継ぐ前途有望な後輩たちならば、彼女が残した連絡だけでもノースピースで起きようとしていることを推測できるはずだ。

ミシェルはノースピースがあるミドルオーシャンの向こうのどこかを見つめた。
白い雲霧が、まるで海の向こうの秘密を代弁するように、青々と輝くミドルオーシャンの果てにかかっていた。