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    ベールの中の真実 #1.止まない雨

    2024.07.10 16:04

晴煙の中のひっそりとした空間、ブルーホークが去る前の頃。
どしゃ降りの雨が降っていた。

「それで、今降っている雨……この異常気象については記録が全くないということですか?」

ダンデルがティーカップをテーブルに下ろしながら尋ねた。
カチャッ……雨音の中に澄んだ音が響く。

「さ、さようでござる。何日もかけて探したものの……これほど雨が降った事例はランドキーパーの記録にも存在しておらぬようでござった」

シュム、エルリッヒ、ダンデル。
元々はルトンやバーディ、クラディスも含めて共に様々な事態への対応を議論する場だったが、それぞれ異なる事情で欠席したため、部屋には三人しかいない。
湯気の立つティーポットとは相反して、その部屋の空気は凍り付きそうなほどに冷え切っていた。

「何日も?」
「な……何が気になるのでござるか?」
「ただ聞いてみただけです。記録が無いという結論に達するのに十分な日数だったのか」
「うっ……十分かと聞かれると……もう少し探してみるでござる」
「そうしてください」
ダンデルは短く答えると、改めてティーカップを手に取った。

「で、谷の方の状況は?」

落ち着きを失ったシュムの視線が、エルリッヒに向けられる。

「あの……はい。それが……」

シュムとエルリッヒはダンデルが苦手だった。
自らのすべきことを確信している者特有の冷たさ、もしくは鋭さ……。
そして、シュムとエルリッヒが考えるに、彼らはダンデルの「すべきこと」に含まれない者たちだった。
そうやって作られたささやかな苦手意識が、まだ若い二人には重石のように感じられた。

「変わりありません。ムの目……いえ、『ムのベール』の方にもまだ大きな動きはありませんし。でも……みんなこの天気のせいで不安がっています。霧ノ神様に何かあったんじゃないかって……」
「霧ノ神に何か……ですか」

ダンデルのカップとは違い、シュムとエルリッヒのカップに注がれたお茶が減る気配は一向に無い。

「……何はともあれ、尋常でない状況であることは間違いありませんね」

ダンデルはその言葉を最後に、また考え込んで無言になった。
シュムとエルリッヒはお互いに助けを求めるように視線を交錯させる。
そんな最中、エルリッヒが心を決めたように先に話し始めた。

「では、残りの案件は……ソリダリスとの戦闘、そして暗い島事件の後処理の進捗チェックですね」
「ああ、その件なら大きな問題も無く進んでおるぞ」

シュムが素早く答えた。

「以前バーディ殿とルトン殿、クラディスが言っていた通り、負傷者は全員ソリダリスで治療を受けるように手配して……負傷者の数もダンデル殿とフェンラード殿のおかげでだんだん減ってきたところでござる」
「白雲の谷にも重傷者はいませんが……船を率いてきて治療をしてくださったおかげで、早く対処することができました。レル様も感謝していましたよ」
「とんでもない。我々のすべきことをしただけのこと……。それに、こちらの責任が全くないとは言えませんからね」

二人が安堵の息をつこうとしたその時、

「ただし」

ダンデルが話を続けた。

「ただし、守られていないことがあるようですね。この場に来なければ気付かないところでした」
「守られていないこと……でござるか?」

シュムの瞳が大きく揺れる。

「ええ。深刻な負傷者は私のところに連れてくるようにと、確かにお伝えしたはずですが」
「わ、分かっているでござる。すでに、深刻な負傷者は全員……」
「谷にもいないはずですが……。もしよければ、その負傷者の名前を……」

ダンデルの目が、初めて二人へと真っすぐに向けられた。

「あなたたち、二人」

医師が患者を診察するような、冷静な眼差しと声だった。

「拙者はどこも怪我など……」
「私も、特には……」

二人が答え終わるのを待たずに、ダンデルが指でシュムとエルリッヒの胸元を強く突いた。

「ここも?」
「な、何を……?」

ダンデルは何事も無かったかのように、優雅な動きでティーカップに口を寄せる。

「……ちょうど集まったことですし、じっくりお話しましょうか」

***

「えっと……つまり……」

ブルーホークのメンバーが忙しく動き回り、丸く集まって座れるように場が整えられた。

「ところで……フェンラード殿はなぜここに?」

いつの間にかダンデルはフェンラードのお腹の上に乗り、お茶をすすっていた。

「気にしないで、話を続けてください。かなり長い話になると思いますが」
「つまり……私の話を……しろってことですか?」

エルリッヒはまごつきながら、ダンデルに問い返した。

「ええ。白雲の監視者の親方に頼まれたんです。あなたがすごく辛そうだから、話を聞いてやってくれって」
「ルトンさんが……」

ルトンに話が及ぶと、エルリッヒの表情がふっと暗くなった。
そしてその影響か、どこか浮ついていた雰囲気がぐっと引き締まった感じがした。

「どうだろう……。辛い……辛いのかな……」

エルリッヒの口から次の言葉が出るまでには、かなりの時間がかかった。
だが、誰も催促はしなかった。
ダンデルはお茶を2、3回注ぎ足し、フェンラードは完全に眠りに落ちていた。
シュムは静かにエルリッヒが口を開くのを待ち、雨はとめどなく窓に打ち付けて、一定のリズムを奏でていた。

「……あいつ……じゃなくて、ラルゴが……妖怪だったことは別にいいんです」

静寂を破ったのは、エルリッヒの決心だった。

「どんな目的で谷に潜入して、何をしていたのかも……興味ありません。監視者仲間、それ以上でもそれ以下でもありませんでしたから」

温もりを求めるように、エルリッヒの手がティーカップをぎゅっと握った。

「でも、辛いのは……」

『時間』、とエルリッヒは小さく呟いた。
たった二文字の単語に、多くの意味が込められていた。

「今みたいに雨が降っている時とか……任務を遂行する時に、たまに顔を合わせていた……その時間が……今でも引っかかっているんです。どこかに刺さっているみたいに」

「時間……でござるか」

「そうなの、シュム。時間。監視者たちと、みんなと過ごしたあの時間……」

「……あの時間が全部嘘で偽りだったなら、私たちには何も残らない気がして……。本気で笑って、幸せだった記憶が……間違いなくそこに存在していたのに」

エルリッヒの言葉が流れに乗り始め、次第に止められない激流のように勢いを増していった。

「みんな顔には出さないけど……前みたいには笑わなくなりました。雨が景色を変えるように、私たちの思い出は……みんな上書きされちゃったんです。嘘と偽りに」

淡々と事実を語る声は悲しそうでも無ければ、怒りに満ちてもいなかった。
ただ、雨に濡れたような声だった。
その声は雨に溶け、部屋の空気をさらに沈ませる。
「エルリッヒ殿……」
「……」

三人とも、何かを失うか、他の誰かに背を向けられた経験がある。
だから、それ以上何も言わなかった。
エルリッヒが語った辛さがこじ開けた、それぞれの傷。
ダンデルはブルーホークの仲間を失った時を思い浮かべる。
その傷は、今でも痛みとして残っていた。
シュムは裏面の境界での出来事を思い浮かべる。
その傷は、無理やり目を背けた傷だった。

「……いいや」

静寂を破ったのは、シュムの力強い声だった。

「エルリッヒ殿と、白雲の監視者のその記憶や時間……。それはラルゴごときに変えられるものではござらぬ」

シュムは突然思い浮かんだかのように、口を突いて出た言葉を発した。

「申し訳ない、ダンデル殿。拙者が口出しを……」
「……いいえ、構いません」

ダンデルはシュムの言葉を待った。

「……クラディスは……」

シュムの口から飛び出した名前には、エルリッヒのものと同じ時間が込められていた。

「あの者は拙者を信じておらなんだ。そして拙者は……あの者が一人で行動した、いや、今も一人で行動せねばならぬ理由を悩み続けたでござる」

「……」

「恐らく、クラディスの傍に拙者ではなく、冒険者殿のようなお方がおったならば……きっと違う結果になっておったでござろう。しかし今はもう……悩んではおらぬ」

シュムは自分を支えてくれた者たちを思い浮かべた。
霧の向こうの客人たち、ずっと前から自分の傍にいた人たち。
そして、自分が持っているものに気付いた。

「今の拙者はもう気にしておらぬ。クラディスが拙者をどう思っていたのか……周りの者たちが拙者をどう思っていたのかも。冒険者殿と多くの経験をして、拙者も変わったのでござる」

裏面の境界での出来事を思い浮かべた。
初めてクラディスに会った時の記憶、恐ろしい真実の記憶。

「最初に晴煙へ来た時、あの者がくれた小さな信頼は……今も拙者の中にあり、拙者のものでござる。それは他の何者にも穢すことはできず、他の何者にも捨てることのできぬもの……」

何一つ、自分のものでないものなど無い。
ゼノン、ラルゴ……誰がなんと言おうとも。

「また、同じくクラディスにもその小さな信頼が……今も残っていると信じておる」

シュムはもう、自分自身のことで悩んではいない。
悩んでいるのは、彼に再会した時……どんな言葉をかけるかだった。

「それゆえ、エルリッヒ殿の思い出……その思い出もエルリッヒ殿と監視者たちのものでござる。些細な偽りごときに穢されることなど、決してござらぬ」
「私と……監視者たちのもの」
「つまり……ラルゴが監視者たち全員との思い出を捨てて裏切ったのか、何もかも消えてしまったのではないかと悩む必要はないということ。もしもラルゴ……あの者がそれを捨てたとなれば、それは真に……」
「……愚か者である証」

***

そうして、また何度かティーカップにお茶が注がれた。
雨は止まない。

「辛ければ辛いと言うことが大事なんです。もちろん私も、なかなか口に出せないタイプの人間ですけどね」
ダンデルは言葉を濁しながら、癒えない傷口を触られた時のように顔をしかめた。

「傷が癒えると、傷つく前よりも強くなるもの。もしかしたら、私よりもシュムやエルリッヒ……あなたたちの方が強い人なのかもしれません。それに、私たちには……まだ傍に、風で失ったのと同じ分の種が残っていますから」

ダンデルの言葉を聞きながら、エルリッヒとシュムは医師が処方した薬を飲むように、静かにお茶を飲み込んだ。
「……お茶、おいしいですね」
「確かに。美味でござる」

二人の微笑に、ダンデルは初めて小さく笑った。
長く痛みに苦しんできた患者のような、心から笑う方法を忘れた人のような、苦くてぎこちない微笑みだった。
わずかな言葉で変えられることなどない。
ラルゴとクラディスの裏切りも、去っていったブルーホークの仲間達も、今の晴煙の天気も、何一つ変わってはいないが……
三人の心には、誰にも変えることのできないそれぞれの晴煙が宿っていた。
雨が止んで新しい芽が吹く、晴れ渡る空の下の晴煙が。

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